この記事を書いた人
現在の年齢:28歳
当時の年齢:23歳
上司の小池さん
私と小池(仮名)さんとの出会いは、ありきたりなものでした。
私は大学を卒業したあと、社内システムを販売する会社に、営業職で就職しました。
開発部でつくられたシステムを、会社を訪問し使ってもらえないか交渉をする、というのが仕事内容です。
本来、コミュニケーション能力が高い方ではないし、営業職なんてできないと思っていたのですが、大学四年生の冬休みになっても就職先が決まらず、焦っていました。
どこでもいいから内定がほしいと思って応募した結果、この会社で内定をもらえ、断る勇気もなく、就職が決まりました。
営業職に不安しか抱いていなかった私を支えてくれたのが、教育担当になってくれた小池さんでした。
小池さんは、当時営業成績トップで、部長から、
「彼についていけばなんの心配もいらない」
と紹介されました。
そんなすごい人の下でやっていけるのかとさらに不安になりましたが、営業成績トップということもあり、小池さんはとても話の上手い人でした。
一緒に過ごしていると、不安な気持ちが少しずつやわらいでいったのです。
悪いことが続く一日
その日は最悪でした。
午前中に、契約になったはずの会社から、
「別の会社から提案されたシステムの方が安かったため、解約したい」
と電話が来ました。
部長にその会社に出向いて、もう一度交渉して来いと言われ、会社に向かいましたが、担当者は聞く耳を持ってくれませんでした。
最終的には、いい加減にしてくれと舌打ちされ、私は心が折れて会社に戻りました。
なんとか気を取り直し、元々アポを取っていた会社に向かったのですが、その会社の担当者は陰湿なタイプの男で、一時間程かけて、ネチネチとシステムの盲点をついてきました。
言っていることは間違っていないのですが、午前の出来事もあり、なんだか悔しくてたまりませんでした。
会社に戻ってその話をしていると、隣のデスクの先輩に、慌てて謝られました。
「ごめん、ねずみ男のこと聞いてなかった?」
先ほどの会社の担当者こと「ねずみ男」は、部署内で有名な人物だったそうです。
おそらく、向こうの会社でも扱いに困っているのか、10年くらい異動もなく総務部長をしているということでした。
出っ歯なおじさんなのでねずみ男と呼ばれ、その会社には営業に行かないよう、内々に引き継がれていたそうです。
ただ、長時間ネチネチ言われ続けるだけで、怒鳴られたり罵声を浴びせられたりするわけではないので、表立って引き継ぐことが出来ず、たまに、こうして犠牲者が出るということでした。
みんなが、「災難だったね」と、缶コーヒーやお菓子をデスクに置いてくれました。
みんなの優しさは嬉しかったのですが、気分は全く晴れませんでした。
今日は絶対に定時で帰る、と思い、作業を急いでいるときでした。
「今日、飲みに行かない?」
小池さんにそう声をかけられました。
以前から、小池さんには飲みに誘われていました。
でも、小池さんは結婚指輪をしていたので、二人で飲みに行くのは気が引け、いつも予定があると言ってやり過ごしていました。
今回もそうしようと思ったのですが、今日は松島さん(仮名)も一緒だと言われました。
松島さんというのは、小池さんの同期の女性でした。
松島さんは姉御肌で、みんなから慕われており、いつか一緒にごはんに行きたいと思っていた先輩でした。
「松島さんがいるなら行きたいです」
私はそう返事をしてしまいました。
「俺は嫌なのかよ」
「いや、奥さんに悪いじゃないですか」
私は小池さんをあしらって、仕事を続けました。
定時で仕事を終わらせ立ち上がると、私と小池さんは、二人だけで会社を出ました。
松島さんはその日は横浜支社におり、居酒屋で合流すると小池さんに言われていたのです。
このとき、会社の電話を使ってでも、松島さんに確認の連絡を取るべきでした。
向かった居酒屋は、小池さんがよく行く居酒屋だそうで、親しそうに店員さんに挨拶したあと、
「あとからもう一人来る予定だけど、いったんカウンターでいいや」
と言って、カウンター席に座りました。
普通は最初から四人がけの席に座って待つものじゃないのかな、と思いながらも、まだ会社の人と飲みに行く機会が少なく、きっと大人の飲み会はこういうものなのだと言い聞かせました。
その居酒屋は、いわゆる大衆居酒屋でした。
バーのように薄暗くて雰囲気のあるお店ではないので、小池さんとの距離が近いことに若干嫌な予感はしていたのですが、大衆居酒屋のカウンターなんて狭いから仕方ないと、また、自分に言い聞かせました。
小池さんは私に、飲み物は何がいいか聞き、飲み物を注文しつつ、おつまみもいくつか一緒に頼みました。
運ばれてきた料理は、チーズや明太子が使われていたりと、明らかに小池さんの好みではなく、女の子が好きそうなものを注文した、という感じでした。
元カレはメニューに塩キャベツとたこわさがあれば、それだけでビールを飲み続ける人だったので、小池さんはやはり手慣れているんだと思うと、もっと居心地が悪くなりました。
心なしか、料理を取り分けるふりをして、小池さんが少しずつ体を近づけてきている気もしました。
自分のことを可愛いと思うほど自意識過剰ではありませんが、さすがに警戒しました。
でも、全然警戒し足りなかったのです。
小池さんは、いかに私が頑張っているかを優しい声で語り続けました。
正常な状態だったら、気持ち悪いと感じていたと思います。
でもそのときは、お酒が入っていることもあり、涙が出てきてしまいました。
「今日はたくさん飲んで、いっぱい泣いて、明日からまた、がんばろう」
そう言って、小池さんは、私のジョッキが空きそうになると、すぐに飲み物を頼んでくれました。
松島さん、早く来てくれないかな、と思ったところまでが、きちんと意識があったところでした。
「永野さん、帰れそう?」
小池さんは、松島さんが来れなくなったから、もう帰ろうかと言ってきました。
朦朧とした意識の中で、やはり、松島さんは最初から来る予定じゃなかったんだ、と気づいたのですが、すでに何かに掴まらないと、まともに歩くこともできない状態でした。
「今日帰って一人になったら、寂しくなっちゃわない?」
否定しなければいけないと思ってはいたのですが、慣れない仕事で、ストレスが蓄積されていました。
「寂しいです…」
誘惑に勝つことができませんでした。
そのまま、私たちは近くのビジネスホテルに入り、関係を持ってしまいました。
やめられない関係
それから、私と小池さんは、頻繁に飲みに行くようになりました。
もちろん飲みに行くだけで終わることはありません。
最初は奥さんへの罪悪感でいっぱいでしたが、すぐに見てみぬふりをするようになりました。
小池さんは、私がほしいときに、ほしい言葉をくれました。
最初のうちは、小池さんから誘われていましたが、私から誘うことも多くなっていきました。
大学卒業前に彼氏と別れて以来、仕事に慣れることに必死で、出会いの場に出向くこともなく。
友人たちは、大学卒業と共に地元で働くことになったり、同じように仕事が忙しかったりで、些細なことがあったときにすぐに連絡できる人がいなかった、ということも原因の一つだったと思います。
私は小池さんにすがるようになっていきました。
そんな日々を過ごしていたとき、松島さんと飲みに行くことになりました。
小池さんと違って、女性らしく、おしゃれなイタリアンのお店でした。
メニューを見て、1000円を下回るメニューが見当たらないことにドキドキしていると、察した松島さんは笑いました。
「今日は私の奢りだから、気にしないで」
若いんだから肉食べるでしょ、と、初っ端から、肉の盛り合わせプレートを注文しました。
松島さんはこういう豪快なところもあって、後輩みんなに好かれていました。
本来、部長は私の教育係を松島さんにしようと思っていたそうです。
でも、この春に横浜支社を立ち上げたのですが、人手が間に合っておらず、
松島さんは本社と横浜支社を行き来する日々を送っており、担当にできなかったということでした。
「本当は数少ない女の子同士だし、もっと早く飲みに行きたかったんだけどねー」
松島さんは、最初は私の好きな食べ物や趣味などから質問し、場を温めてくれると、困っていることや悩んでいることはないかと聞いてくれました。
もちろん小池さんのことは言えませんでしたが、仕事で不安に思っていることを打ち明けると、親身に相談に乗ってくれました。
あっという間に時間が過ぎ、二軒目に景色がきれいなバーに連れて行ってもらったところで、その日は解散しました。
気づいたこと
それから、松島さんは忙しいはずなのに、頻繁に私を飲みに連れて行ってくれるようになりました。
同期の女の子は横浜支社配属だったので、私としては松島さんと飲みに行くのが楽しみで仕方ありませんでした。
「小池とはどう?」
松島さんは、普段なら一人でワインを一瓶空けたりするのに、その日はビールを一杯飲んだあと、ソフトドリンクしか飲んでいませんでした。
この話をするためでした。
一瞬、何も言葉が出ませんでした。
「仲、悪くはないと、思います」
笑って返したつもりでした。
でも、松島さんは、まっすぐに私の目を見てきました。
本当のことを話すべきか、悩んだのもいけなかったのかもしれません。
松島さんは、大きなため息をつきました。
「ごめんね」
謝る理由は何一つないのに、松島さんが謝りました。
「あいつ、営業成績はいいし、話はうまいから、同期としてはいいやつなんだけどね」
本当にごめんね、と、松島さんはもう一度言いました。
悪いことをしているのは、謝らないといけないことをしているのは私のはずなのに。
もし、私たちの関係を知られたら軽蔑されるだろうな、と思っていたのに、松島さんはつらそうな顔をしていました。
松島さんは、最初に飲みに誘ってくれたときから、私たちの関係を疑っていたそうです。
松島さん自身はあまり本社にいないため、違和感がなかったそうですが、後輩たちから、私と小池さんの距離が近すぎると聞き、なんとかできないかと考えてくれていたそうでした。
頻繁に飲みに誘ってくれていたのは、小池さんと飲みに行くのを止めるためだったと打ち明けてくれました。
情けなくて、涙も出ませんでした。
よくよく考えれば、小池さんは、何かを相談しても、うんうんと聞いて、優しく慰めてくれるだけでした。
私にいい顔をしたかっただけだからです。
でも、松島さんは、優しく聞きながらも、どうしたらその問題が解決できるかを提案してくれました。
「悪い男に引っかかっちゃいましたね、私」
正式に知られてしまったし、もう、辞めるしかないなと考えたときでした。
「ねえ、もう小池と二人だけで会わないって約束できるなら、一緒に横浜支社に行かない?」
松島さんの話によると、人手が足りないため、正式に松島さんは横浜支社に異動予定があり、もう一人、新卒の中から見込みのありそうな子を連れてきてほしいと言われていたそうです。
「考えさせてください」
ありがたい話でしたが、すぐには頷くことができませんでした。
その後
あれから五年が経ち、私は今、横浜支社にいます。
本当は、数日考えた結果、松島さんには会社自体を辞めると伝えました。
でも、松島さんにそう伝えた翌日、思わぬ電話がかかってきました。
あの、ねずみ男と呼ばれていた担当者でした。
私宛に電話がかかってきたときは、身構えましたが、契約をしたいという内容でした。
驚きましたが、ねずみ男いわく、他の会社の人も含め、営業に来る人たちは、自分が対応すると面倒そうにあしらってくるが、私だけは一つ一つ丁寧に受け答えしたため、不安な点もあるけど、契約してもいいと思ってくれたそうです。
問題点をいくつか提示されはしましたが、開発担当に確認して回答すると、正式に契約になりました。
あのねずみ男と契約できたということで、部長から褒められ、気持ちの問題もあったのか、その後の契約件数も増えていきました。
少しだけ「辞めたくないな」と思っているところに、松島さんからの説得を受け、ひとまず異動してみることになったのです。
小池さんと離れたことで冷静になり、今度は思い出さないようにしていた、奥さんへの罪悪感で悩むようになりました。
小池さんの奥さんは、今は退職していますが、小池さんと松島さんの同期です。
松島さんに、奥さんに謝りたいから連絡先を教えてほしいと言いましたが、止められました。
奥さんは頭の回転が早い人なので、不倫に気づいていないはずはなく、何か考えがあって静観しているだけだと思う、ということでした。
小池さんはと言うと、私の次は人事部の女の子に手を出したそうで、人事部長に不倫を知られるところになり、経理部に異動になりました。
急な異動だったので、さすがに奥さんに黙っていられないと、小池さんは奥さんに今までの不倫について打ち明けたそうですが、奥さんは不倫を許し、一緒にがんばろうと言って、お咎めなしだったそうです。
小池さんは奥さんのその一言に改心し、今は経理部でがんばっています。
ここで終われば、みんな再出発した、という話で終わることができたのですが、この話にはもう一つ秘密があります。
奥さんの秘密
松島さんが、同期であった奥さんを心配して連絡を取ってみたところ、奥さんはとても元気にしていました。
小池さんの両親はいくつか不動産を所有しているそうで、元々金目てだったから気にしていない、ということでした。
そして、小池さんの奥さんは、昔も今も、不倫しているそうです。
ほんの少しだけ小池さんのことがかわいそうになりましたが、気持ちはすっきりしました。
私はもうしばらくのあいだは恋愛はお休みして、松島さんと飲みに行くのを楽しもうと思います。